【日本の迷車】名車の立派な家柄を絶やしてしまった迷車たちをご紹介!

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この世には名車の他に「迷車」と呼ばれるクルマ達の存在があります

コンセプトがずれていて、迷ったあげくに、打ち出した事がよく見えます。

先代のスピリッツを受け継ぐ事無く、あえて新境地を求めて、あえなく散ったクルマ達。

いまだにネットの世界では、迷走を止めようという動きもありません。

そんな涙なしでは語れない迷車達を紹介いたします

いえ、感動はございません、笑い過ぎて涙が止まらないのです。

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トヨタの迷車:カレン

セリカは、プレリュードやシルビアになりたかった?

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toyota_Curren_ST-206_1996_parking.jpg
Qurren [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

トヨタにはクジラクラウン、ガイアやオーパ等と色々な迷車があります。

このカレンも、その内にの1台と言えるでしょう。

6代目セリカ(T200型)をベースにしたノッチバッククーペです。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1996_Toyota_Curren_XS_rear.jpg
Qurren [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

当時はプレリュードから始まった所謂「デートカー」と呼ばれる2ドアクーペが良く売れていました。

ニッサンも「アートフォース・シルビア」というキャッチコピーでシルビアを発売したところ大ヒットをとばしました。

プレリュードやシルビアは、大ヒットの流れに乗ったまま、モデルチェンジ後も好調な売れ行きです。

ところが、セリカときたら、WRCのイメージが強く、ナンパなデートカーのイメージは皆無です。

ツインカム・ターボに4WDとラリーベース車両にありがちな、多数の穴やコブだらけ。

4灯式異形ヘッドライトやヌルっとした曲面を多用したデザインは既視感がありました。

都会よりもグラベルやターマックのワインディングが似合いそうです。

結局、デザイナーが正直に、フランスのルノー・アルピーヌA110をリスペクトしたと後に語る始末です。

そんな調子だから、デートとは無縁なオタクかラリーストしか買わなかったのです。

さすがのトヨタも、これではいけないと思い、引っ張り出したのが北米仕様のセリカ・ノッチバッククーペです。

テーマは「若者の洗練されたスペシャルティ」土埃よさらば!と意気込みました。

しっかりと、顔はアルピーヌ風味から、都会の夜景と街並みが似合う、あっさり顔に整形されました。

でも、ちょっとコロナ・クーペに似すぎていないか?という不安も含みつつのデビューです。

だからなのか、キャッチコピーは「その車はカレンです」と、控えめに自己紹介です。

搭載されたエンジンも、ちょっぴり体育会系と草食系のNAエンジンです。

2Lはスポーツツインカムの3S-GEと、ハイメカツインカムの3S-FE、1.8Lは4S-FEでした。

駆動方式だって、都会を走るにはFFで十分です。

スタイル自体は、すっきりした2ドアクーペで、セリカよりむしろ洗練された印象もありました。

トヨタの開発陣は、洗練されたスペシャリティを見事に表現してみせたのです。

開発費用も少なくて済んでるし、走りはセリカベースだから悪いはずがなかったのです。

そして、泣く子も黙る、トヨタディーラーの販売力ですから、ライバル撃墜も容易いはずでした。

そうです、容易いはずだったのですが、しかし、時すでに遅しでありました。

残念な事にコンセプトが時代からずれていたのです。

カレンが発売された1994年はスペシャリティカーは下火の一途をたどっていたのです。

その理由が悲しい、この頃、世はミニバンやRV車のブームとなってきていたのです。

都会から逃れて、海や山へと、若者たちは自然を求めて出掛けていたのです。

オシャレな夜景より星空、キャンドルライトより、キャンプファイヤーだったわけです。

捨て去った土埃が似合い、置き去りにした4WDを備えたRVが売れ始めていたんです。

しかも、一度出かけたものの、虫に刺されたりしたから、出掛けなくても雰囲気だけで良かったのです。

ぺったんこで窮屈なクーペよさらば!見晴らしの良い背の高いクルマがもて始めていました。

デビューした時代背景、ちょっと女性向けとも思えるネーミング等、運が悪かった車です。

今見ても、すっきりしていて、中々カッコいいクーペですが、一代限りで消えて、文句なしの迷車になりました。

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ニッサンの迷車:スカイライン 7代目 R31型

モーレツからビューティフルへ・・・そして迷走の彼方


R30型は、名ばかりのGTは道をゆずりなさいと罵られた5代目C210の屈辱を見事に晴らしました。

DOHC4バルブ、チェーン駆動のカム機構、独立した排気系を備えた、名機FJ20Eが吠えたのです。

4気筒エンジン故にGT-Rこそ名乗れなかったものの、スカイラインRSは素晴らしい性能を誇っていました。

吠えるようなエンジン音や野太い排気音は、強かったスカイラインを待ち望んでいたファンに大絶賛されました。

そこで、ニッサンはターボを装着したFJ20E-Tへと進化させ、RS-TURBOを発売します。

嬉しい事にワークス体制によるモータースポーツへの復帰も果たします。

さらには、人気テレビドラマでの活躍や、ミニカーやその他の玩具も発売され子供からも人気を得ます。

これは次期モデルで、ついにGT-Rも復活するのじゃないかと、ファンは期待に胸膨らませたのです。

そして、運命の日は訪れたのです。

1985年8月31日、7THスカイラインがデビューしました。

「都市工学」というキャッチフレーズと共に、CMの画面に登場したのは白い4ドアハードトップでした。

あの鉄仮面と呼ばれたRS-Xやシルエットフォーミュラや世界で唯一のFRのGr.Cマシンは夢だったのでしょうか。

そこにはモーレツもスポーツも何もなく、ただハイソで大人しいだけのセダンがあるだけです。

聞くところによると、意外にもC210型の通称「ジャパン」よりも販売台数は少なかったそうです。

販売台数だけは、ジャパンは道を譲っていなかったのです。

R30に足りなかったのは、高級感とファッショナブル性、当時のライバルであるマークⅡにはそれがあるのです。

スカイラインは敵をも見失う事になっていました。

既にセリカとはクラスや車格まで違うのに、煽られたものだから、追いかけてしまっていたのです。

そこで開発陣はソフィスケートされた高級サルーンを目指し、ソフトサルーンを生み出したわけです。

そこには、ニッサンの持てる最新技術も導入して、販売面での起死回生を願ったのです。

ラインナップされたのは4ドアハードトップと4ドアセダンでした。

上級グレードには最新技術の4輪独立操舵システムであるHICASを搭載したモデルも用意しました。

新たな客層はしっかり掴み、販売は好調でした。

だが、昔からのファンは激怒、そんなものはローレルがあるじゃないかと怒りをぶちまけました。

もちろん、当のニッサンは、そこもお見通しで、一年後には2ドアスポーツクーペをデビューさせます。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nissan_Skyline_R31_2000_GTS-R_002.jpg
I, 天然ガス [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

一定速度になると作動するGTオートスポイラーというギミックもありました。

そして、グループA参戦用のホモロゲーションモデルである、2ドアスポーツクーペ「GTS-R」がデビューします。

2ドアクーペのキャッチコピーは「その時、精悍。」じゃあ最初は何だったのかとファンは困惑したのです。

一番大事にしないといけないスカイラインファンとのずれが生じたコンセプトが迷走する原因になりました。

迷った車と書いて「迷車」まさにそんな存在です。

完成度も高く、評論家からも辛口の評価は出なかった、ただ、スカイラインで無ければと、条件付でありました。

その後、GTS-Rの活躍もあり、再びスカイラインはGT-Rの名と共にサーキットへ復帰する事になります。

歴代スカイラインの中での迷車、7THスカイラインは名車を生むきっかけとなったのです。

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フォードの迷車:フェスティバ5(ファイブ)

マツダなのかフォードなのか、いえ、起亜です。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ford_Festiva_1.3_GL_1993_(14790105165).jpg
order_242 from Chile [CC BY-SA 2.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0)]

1981年、マツダは提携先のフォードと共同出資で株式会社オートラマを設立します。

そして「オートラマ店」の名称でフォード車及びフォードブランドのマツダOEM車の販売を行っていました。

そこは数々の迷車の宝庫でもありました。

テルスター、レーザー、プローブ等、本当の輸入モデルもありましたが、大半はマツダ車がベースの国産でした。

その中で販売もそこそこ好調だったのがフェスティバです。

開発はマツダが担当し、3ドアハッチバックでブリスターフェンダーがデザイン上の特徴でした。

エンジンは直列4気筒のの1.1Lと1.3Lが用意されました。

発売直後から女性ユーザーからのウケもよく、キャンバストップ仕様等も追加され、販売も伸びる一方です。

さらにはツインカム4バルブヘッドの1.3Lを搭載したスポーツもでるGTとGT-Xも追加していきます。

その派生モデルには往年のイタリア車をも思わせる、ドイツのスカラデザインが手掛けたGT-Aも登場します。

これは、とてもカッコ良く、フェスティバのイメージアップにも貢献しました。

しかし、前後して苦心していた事は、3ドアモデルのみでは、ファミリー層へのアピールができません。

そこで登場したのが、迷車の素質たっぷりな、5ドアのフェスティバ5です。

カタログにはデカデカと「使って便利な5ドア登場!」と書かれていました。

確かに5ドアは便利ですよね、でも、左ハンドルなのです。

利便性をアピールしたいのに、ずれた事をしてしまいました。

全然便利じゃない!当時はパーキングのチケット発券機も左ハンドル用は少数です。

高速道路にETCなんて、まだ先の話ですから、どこが便利なのかよくわからないコピーです。

当時、マツダの提携先の韓国の起亜自動車で生産していた姉妹車のキア・プライドをまんま輸入販売したのです。

これでは売れるはずもありません。

さらに、これはどうだと、フェスティバβなる4ドアセダンまで導入するのですが、上手くいくはずがありません。

もうこちらは迷車を通り越して珍車の部類です。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ford_Festiva_%CE%B2_003.JPG
Tennen-Gas [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

国産迷車という事ですが、マツダ無しでは語れないのが、このフェスティバです。

後にデミオとして進化し、マツダを危機から救う事にもなったので、大目にみてやって下さい。

そんな事になるとは、この時には思ってもみなかったマツダです。

販売店のマルチチャンネル化を図り、次から次へと迷車を世に送り出す事になります。

オートラマ店だけでも、その殆どが迷車だったのに、何処までもマニアックなのがマツダです。

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ホンダの迷車:ロゴ

また背を高くしてみました。


引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1996_Honda_Logo_01.jpg
Mytho88 [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

トールボーイで一世を風靡した初代シティですが、フルモデルチェンジでトゥディそっくりになります。

その低い車体はデザイン優先で先代の使い勝手の良さや、室内の解放感は皆無でした。

だが、エンジンと足回りはさすがホンダで、低重心な事からモータースポーツ界では活躍します。

いくらモータースポーツでは活躍しても、このクラスは売れてナンボの世界です。

反省したホンダは、また背を高くして、1996年に名前も新たに「ロゴ」として発売します。

しかし、軽量化を追求しすぎて、5ドアのリアウィンドウは手動式で、失笑をかいます。

インパネも質感に欠け、さらには乗り心地重視の足回りは不安定で危険過ぎるとまで言われました。

そんなロゴですが、さすがはホンダ、エンジンだけは良かったのです。

1.3Lのエンジンはお家芸のPGM-FIにより、なんと1300rpmで最大トルクの9割を発生したのです。

それをホンダは「ハーフスロットル高性能」と呼びました。

軽量ボディとの相性も良く、アクセルをちょっと開けるだけで、坂道も元気良く駆け上がりました。

ですが、それだけが取り柄で、他にこれといった特徴もなかったのは事実です。

しかも、モデル末期には、衝突安全性も考慮された改良により、なんと100kg増になってしまうのです。

迷車にふさわしいエピソードじゃありませんか、でも、安全性は必要ですから仕方ありません。

頑張って5年間生産されたのですが、迷車の定番な一代限りでの生産終了となりました。

ずれたコンセプトで失敗した事を反省して、軌道修正のはずが、迷走してしまった一例ですね。

後にホンダは、Fitでその雪辱を晴らす事にもなりますから、その意味ではロゴも色々と貢献しました。

スズキの迷車:エリオ

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Suzuki_aerio_1.5_f.jpg
Toyotacoronaexsaloon [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]

スズキ・ソリオではなく「エリオ」です。

2001年に小型車であるカルタスの後継車としてデビューしました。

ラインナップは5ドアハッチバックと4ドアセダンを用意しました。

普通ならシャーシもキャリーオーバーしそうなスズキですが、まったくの新設計です。

エンジンは、国内向けには1.8Lと1.5Lを搭載、北米仕様には2.3Lも搭載されました。

車高が1550mmと当時のクルマとしては高いので、縦横比が妙でコンパクトに見えますが割と大きいのです。

その為、1.5Lは5ナンバーサイズですが、上級仕様として差を付ける為に1.8Lにはフェンダーモールを装着。

わずかながらですが、5ナンバー枠をオーバーする1,720mmとなり、スズキ初の3ナンバー車となったのです。

こちらが1.5Lモデルです。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Suzuki_aerio_1.5_r.jpg
Toyotacoronaexsaloon [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]

そして、こちらが1.8Lモデルです。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Suzuki_Aerio_002.JPG
Tennen-Gas [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

フェンダーモールでなく、オーバーフェンダーにしてパイクスピークレプリカにすれば売れたかも知れません。

このフェンダーモールって、実はスズキの苦肉の策だったのです。

1.8Lは、シートヒーター等といった装備をとにかく充実させて上級モデルとして仕立てあげました。

でも、外観にあまりにも差が無さ過ぎて、モールを装着してしまったんです。

たったそれだけで、スズキ初の3ナンバー車となったわけですが、あまりにも地味な理由ですね。

そこが迷車らしくって良いと思いませんか。

輸出向けとして良く練られたコンセプトでも、国内の需要とは、ずれた形になってしまいました。

そして、こちらも例の如く、一代限りで生産終了してしまいます。

スズキは軽自動車以外になると、地味ながらも迷車濃度が濃いクルマが多いですね。

イスズの迷車:ベレットBタイプ

違うのは顔だけじゃありません。

名車であるいすゞベレットにも迷車の存在があるのです。

今は乗用車の生産を止めてしまったイスズですが、かつては名車揃いでした。

117クーペやジェミニ、このベレットも名車と呼ぶにふさわしいクルマです。

日本で初めて「GT」と名の付くモデルを登場させた事でも有名ですね。

そんなベレットの特徴の一つが独特の足回りでした。

フロントサスペンションは贅沢なダブルウィッシュボーンを採用していました。

そしてリアサスペンションが凝りに凝っていたのです。

それはダイアゴナルスイングアクスルという独立懸架の一種で非常にクセのあるサスペンションでした。

フィアットやポルシェも採用したスイングアクスル式サスペンションには大きな欠点があったのです。

それは、減速時に荷重が前へ移動すると、ジャッキアップ現象が起こり、大きく逆キャンバーになります。

こうなると、リアはとても不安定になり、最悪の場合は横転にも繋がりました。

一部の走り屋達には、そういう挙動が歓迎されましたが、一般ユーザーには受け入れられませんでした。

年々、セッティングの変更によりマイルドな挙動を示すようにはなりましたが、完璧ではありません。

そこで、リアサスペンションをオーソドックスなリーフリジットの固定式に変更したBタイプを発売します。

それは1966年の事でした。

外見では丸型のヘッドランプを異形角型とし、リアは造形も変更、テールランプも意匠変更されました。

その外観は少し欧州車、特にフランス車の雰囲気もあって、中々カッコ良いですね。

しかし、このクルマは単に不評なリアサスペンションの変更の為だけにデビューしたのでありません。

タクシー需要に対応する目的もあったのです。

尻下がりのオリジナルに対して、持ち上げられたリア周りはその為だったのかも知れません。

公式な発表はありませんが、タクシーには、大きなトランクの容量が必要です。

ディーゼルエンジン仕様もあったのですが、大きな振動は少々不評でもあり、LPG仕様もありました。

LPGエンジンとなると、大きなLPGタンクがトランクの奥に仕込まれますから尚更です。

ベレットの売りでもあった4輪独立懸架をを自ら否定するモデルとなったのが、このBタイプです。

そこにずれがあったのです、ベレットじゃないベレット買うぐらいなら、他のクルマを探しますよね。

それだけでも迷車と言えるだけの理由にもなりますが、僅か2年で販売終了となった事も迷車たる所以です。

ヒストリックカーではメジャーな存在であるベレットにも、こんな迷車が存在したのです。

ミツビシの迷車:エテルナ・SAVA

ほんとは ça va?って書くんですけどね。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mitsubishi_Eterna_Sava.JPG
Kuha455405 [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

1988年10月にデビューしたギャランの5ドア版であるエテルナの派生モデルです。

非常にややこしい成り立ちに迷車の香りが漂います。

数えて4代目になるエテルナのセダン版として登場しました。

普通なら、セダンであるギャランのフロント、リアの小変更で済ませても良いはずなのに。

外板はリアドアから後ろは専用です。

Cピラーの傾斜が緩やかになり、リアクォーターウィンドウも専用なら、リアウィンドも専用です。

そんな事して意味があったのどうか、疑問も残りますが、ギャランよりも上品な雰囲気を持たせていました。

しかし、そこがずれたコンセプトなのです。

エテルナにはターボ仕様が用意されていましたが、このエテルナ・SAVAはNAエンジンのみ搭載です。

本家ギャランはVR-4でWRCに挑み、大活躍をするのですが、エテルナは鳴かず飛ばずのありまさです。

ただでさえ5ドアは売れないのだから、本来はセダンにも高性能モデルを設定するべきだったのです。

ça va?(サバ)とは、フランス語で「やぁ」とか「元気ですか?」という意味です。

でも、聞かないであげてよって、そんな気持ちになるクルマでした。

販売店思いから、ついつい力が入ってしまうしまったのでしょう。

デザイン的にはギャランよりカッコいいとは思うのですけど、ターボ・4WDモデルが無かったのが残念です。

スバルの迷車:ジャスティ

1234と語呂も良かったのですが。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1986_Subaru_Justy_4WD_(6553107375).jpg
Riley from Christchurch, New Zealand [CC BY 2.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/2.0)]

1984年にレオーネとレックスの間を埋めるべくデビューしたのが、スバル・ジャスティーです。

デビュー当初は3気筒1.0Lエンジンを搭載し、FF、4WDをラインナップ。

3ドアと5ドアの2タイプを揃えていました。

当時はホットハッチの黎明期でもあり、リッターターボ車も登場していました。

そこでスバルもキャッチコピーだけはホットな「火の玉ボーイ」と名打った生ぬるいモデルを登場させます。

それは3気筒 1.2L SOHC9バルブ(1気筒あたり吸気2排気1の3バルブ)エンジンを搭載していました。

パワーアップは図ったものの、ライバル車と比べて動力性能はイマイチです。

ボディサイドに貼られた1.2 litre3valve 4WDの文字が泣けてきます。

1234と語呂は良いけど、だから何という地味さです。

動力性能とキャッチコピーに大きなずれがあります。

そもそも、コンセプト的にも、大人しいクルマで、スポーツモデルという位置づけが、かなりずれてます。

しかし、そこはそれ、生みの親はラリーのスバルです。

非力ながらも4WDはクラス唯一ですから、国内ラリーやダートトライアルでは大活躍したのです。

そのあたりはさすがスバルです。

国産初のCVTを搭載したのも、このジャスティでした。

しかしながら、国内では価格が通常のATより高価なために販売は不調でした。

でも、アメリカでは、1987年 – 1989年まで3年連続で燃費ベストカーに選ばれるほど燃費が良かったんです。

ジャスティもスバルのオリジナルは、この一代限りで終了します。

2代目は2016年突然、ダイハツ・トールのOEM車で登場します。

ですが、昔のような独自性はありません。

また、スバルが独自のメカを満載して、オリジナルのジャスティを登場させる日を夢見ていましょう。

その時のキャッチコピーはぜひ「帰ってきた火の玉ボーイ」でお願いします。

ダイハツの迷車:ミラ・ジーノ1000

総生産台数は1290台でした。

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miragino_1000.jpg
Gn0306 [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]

2002年にデビューしたのが、このミラジーノ1000です。

昔、先輩迷車のホンダN600っていうクルマがあって、当時は和製ミニ・クーパーと呼ばれてました。

このミラ・ジーノ1000はその風貌からして、正に和製ミニ・クーパーです。

とは言え、ダイハツはこのスタイルはコンパーノをリスペクトしたと主張します。

だったら、あの有名なラリーに参戦したミニが装着していたものにそっくりなルーフキャリアは何でしょう。

でも、そうは言っても、似てるようで、そんなに実は似てません。

本来は660ccの軽自動車であるミラ・ジーノに1000ccのエンジンを搭載したモデルです。

むしろ、輸出仕様のミラにジーノのボディを載せたという方が正しいです。

64馬力もあるのですから、遅いはずがありません。

履いてるタイヤはポテンザRE030の165/55R14 72Vです。

それを覆う、ちょっとだけ張り出したフェンダーがスポーティです。

足回りだって、輸出向け高速仕様です。

期待が膨らむ和製ミニ・クーパーのスペックですが、なんと4ATのみの設定だったのです。

結局、同スペックなら、軽モデルのターボ車の方が維持費も安いわけですね。

ワイドボディでもない、軽自動車規格の車体に大きなエンジンというずれ方が残念です。

それでも1290台売れました。

が、このクルマこそ、今一度見直されても良いと思うのです。

軽量コンパクトボディに、少し余裕のパワーというのは、ホットハッチの素性たっぷりです。

せめて5MT仕様があれば、もう少し注目されたかもしれませんね。

ヒット作の中に迷車ありという、ミラ・ジーノ1000でした。

国産車と輸入車の迷車をまとめた感想

色んな、ちょっとずれた感覚のコンセプト迷車を各メーカーごとに見てきました。

総じて、そんな迷車達は次のステップの足がかりとして大きな役割を果たしています。

一代限りで終わったと見せかけて、実は名を変えヒット作となっているのです。

また伝統的なモデルの中の迷車も、開発陣の新たな挑戦が形となって生まれたクルマでした。

そこには、何のためらいもない、意気込みが感じられます。

だから、クルマ自体の完成度は高いものでした。

何も妙なクルマだけが迷車ではありません。

少し寄り道した名ブランドの中にも迷車は存在します。

また何か機会があれば、こうした迷車をご紹介したいと思います。

この記事を書いた人

THUNDERBIRD
以前にガソリンスタンドや自動車中古部品販売店に働いていました。
危険物取扱者の乙四を持っています。



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