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日本を代表する自動車メーカー、トヨタ自動車。
筆者の親の世代から故障が少ない、乗ってて安心という評判をよく聞きますし、反面、真面目すぎてつまらないというアンチ意見を聞くこともあります。
今の若い世代にとってはレクサスの高級感やプリウスの歌舞伎顔という尖ったイメージのほうが強いのでしょうか。
そんなトヨタ自動車はどこから来て、どこへ向かっているのでしょうか?
トヨタ自動車、創業83年の歴史を見ていきましょう。
国産車の黎明期。日本初のガソリン自動車の誕生
引用:https://www.toyota.co.jp
カールベンツ発明、パテント・モトールヴァーゲンのレプリカ。トヨタ博物館収蔵。
世界初のガソリン車の誕生はドイツでした。
1886年にダイムラーが4輪のガソリン車を開発し、同年にカールベンツ氏が3輪のガソリン車を製造して実際に販売します。
それから21年後の1907年、日本で初めて純国産のガソリン自動車が誕生します。
のちに「タクリー号」と呼ばれるこの車を作ったのは「オートモビル商会」の吉田真太郎と内山駒之助でしたが、誕生に大きく貢献したのは皇族であり高級軍人の有栖川宮威仁親王さんでした。
引用:https://gazoo.com
国産吉田式自動車、通称タクリー号
当時の日本の中ではごく一部の大富豪が入手した輸入ガソリン自動車が10台ほど走っていた時代です。
有栖川宮威仁親王殿下は、もともと親交のあった2人を鎌倉へのドライブに誘います。
殿下はドライブの途中、フランスから持ち帰った愛車「ダラック」が、キャブレターの故障で止まってしまい、同行した内山に修理を依頼します。
内山氏は、ものの1時間ほどでこれを修理しました。
殿下は内山氏に1万円(現在の価値で2億円ほど)が入った封筒を渡してこう言いました。
「あなたほどの腕前があればきっと純国産のガソリン自動車を作れるでしょう。そのお金で足りなければ、遠慮なく言ってください。」
皇族から直々の依頼とあっては断るわけにはいきません。
殿下の希望はこのようなものでした。
「いずれ、自動車はもっと普及する。日本の道路は駕籠(かご)と人がすれ違うほどの広さしかないので、向かい合う輸入車同士がすれ違うのは無理だ。日本の道でも2台がすれ違う事の出来る小型で軽量な自動車を作って欲しい。」
内山氏はこの資金を元にして国産ガソリン自動車第一号となる通称「タクリー号」を開発し、まずは14台を受注しました。
この事は大きな話題になりましたが、当時、自動車を公道で乗ろうという人達のニーズを満たす事は出来なかったようです。
そのようなごく一部の人達には大型の、しかも「舶来品」の自動車の方が人気があったのです。
結局このタクリー号は商業的な人気が出る事なく、オートモビル商会はその後、運転手と自動車をセットにしてレンタルするビジネスや、あげくは車を抜きにして運転手だけを派遣するビジネスなどに転向していきます。
その後、快進社、白楊社が国産ガソリン自動車を製造していますが、GMとフォードの人気にはかなわず、快進社と白楊社は解散してしまいます。
豊田自動織機 自動車部誕生
引用:https://www.toyota.co.jp
年間80万台以上、大量生産されたフォードモデルT。トヨタ博物館収蔵。
国産車の人気の低さに致命傷を与えたのはフォードでした。
海外の自動車メーカーは日本国内に組み立て工場を持つようになり、1920年代に続々と日本市場に参入してきましたが、中でもフォードの大量生産能力は自動車の価格を大きく下げる事になり、ついに国産車よりも安い価格で販売を始めました。
こうなると性能も劣り、価格も高い国産車は太刀打ちできませんでした。
ちょうどその頃、1920年に東京帝国大学を卒業した豊田喜一郎が、父佐吉の会社「豊田紡績」に入社しています。
入社した次の年の1921年に、喜一郎はアメリカに約1年滞在します。
喜一郎はこの滞在中にアメリカのフォード工場を見学し、その生産ラインの規模や設備を目の当たりにして圧倒されます。
引用:https://global.toyota
豊田喜一郎氏。トヨタの自動車製造に最も貢献した人物。
「いつか自分も必ず車を作ってみせる。」
喜一郎はアメリカ滞在中に、暇を見つけては街を走る車をスケッチし、車に関する情報をメモする事が日課になっていました。
しかし、帰国した後喜一郎はすぐには自動車を作ろうとはしませんでした。
まずは地盤を固めるために、本業の紡績のための自動織機を作ります。
この自動織機は世界的に大変な評判になり、アメリカやイギリスの数社から技術のライセンスを譲って欲しいと持ちかけられます。
結局、豊田は自動織機のライセンスをイギリスのプラット社に譲り、ライセンス料を10万ポンド(現在の価値で24億円ほど)を受け取ります。
イギリスからの帰り道、喜一郎はさっそくその資金を元に自動車事業を行うプランを練り、帰国するやいなや社内の重役を説得し始めました。
当時の社長である豊田利三郎(喜一郎の義理の兄)も喜一郎の熱意を認め、2人で幹部を説得して回り、1933年には豊田自動織機内に(自動車部)が誕生します。
第二次世界大戦とトヨタ自動車
引用:https://gazoo.com
日本陸軍の統制下、配給制で供給されたトヨタKCトラック
豊田は戦争の影響で軍用車を作らされ、そのおかげで乗用車の開発が思うように出来なかったという見方がありますが、それは正しくありません。
豊田自動織機内に自動車部が出来た翌年、喜一郎は陸軍大尉から中国での陸軍の現状を聞かされました。
中国は沼が多く、そして深い。
国産のトラックは重いため、一度沼にはまったら抜け出せないが、アメリカのトラックは軽いため、容易に抜け出せる。
喜一郎はこれを聞いて、乗用車の開発こそ自分の使命だという、それまで持っていた考え方を変えたといいます。
祖国が大変な状況に置かれている現在、軍用トラックを優先すべきだと考えました。
陸軍は政府官僚とも話し合いを進め、国内の自動車メーカーを合同させてトラックの開発をさせたかったそうですが、招集された自動車メーカーたちはみな、辞退してしまったのです。
困った政府は新しく国営の自動車メーカーを設立するしかないと思っていたそうですが、そこに名乗り出たのが豊田でした。
政府は喜一郎の熱意に打たれて、彼にトラック開発を委ねる事にします。
喜一郎は翌年1935年に豊田G1型トラックを完成させて発表しますが、さらに翌年には初の乗用車であるトヨダAA型乗用車を発表します。
引用:https://www.toyota.co.jp
トヨダAA乗用車レプリカ。トヨタ博物館収蔵。
軍用車の生産は他のメーカーが首を横に振ったにもかかわらず豊田が自主的に取り組んだ仕事であり、しかも並行して乗用車の開発も進めていたのでした。
文字で書くと簡単にまとまってしまいますが、この2年間の製造現場では大変な苦労があったはずです。
豊田の自動車部はトラックを生産する軍需工場に指定され、1945年の終戦までトラックの生産を最優先で行いました。
昭和から令和までのトヨタ自動車の歴史
引用:https://www.toyota.co.jp
終戦直後の挙母工場
戦後、トヨタ自動車の本社工場も爆撃の被害を受けていました。
復興期のトヨタ自動車は車だけでなく、鍋やキッチンのコンロなど、生活必需品など、必要なものならなんでも作ったとの事です。
終戦直後の不安定な経済の中、何度も倒産の危機にさらされながらも乗用車の開発を続けていたトヨタ自動車は1947年にSA型1955年、トヨペット・クラウンを発表します。
引用:https://www.toyota.co.jp
トヨペット クラウン 1955年 RS型 トヨタ博物館 収蔵
当時はGHQが乗用車の販売を禁止していたため、他の自動車メーカーは開発すら行っていませんでした。
そのため他のメーカーは自動車の販売が解禁された後にはルノーやオースチンなどの下請け製造しか出来なかったのですが、トヨタだけは開発を続けていたおかげで、純国産車である初代クラウンを生産できたのです。
クラウン後、それぞれの世代を代表するトヨタの車を追いかけてみます。
1967年、トヨタ2000GT発表
引用:https://www.toyota.co.jp
トヨタ 2000GT MF10型 トヨタ博物館 収蔵
1963年に第1回日本グランプリが開催され、メーカー各社から本格スポーツカーが発売されました。
この2000GTは生産台数も少なく、幻の名車となっています。
1966年、初代トヨタカローラ発売
引用:https://www.toyota.co.jp
初代 カローラ トヨタ博物館 収蔵
1960年代から70年代にかけて、高度成長の波もあり、自動車が一気に普及しました。
交通事故が増えた事や排ガス規制の背景で車の安全性能、環境性能もこの時期に大きく進歩します。
センチュリー、スプリンター、マークⅡ、カリーナ、セリカ、ハイエース、タウンエースなど、数多くの車種を生み出します。
1989年、レクサスLS400発売
引用:https://www.toyota.co.jp
レクサス LS400 トヨタ博物館 収蔵
後にバブル経済と呼ばれた頃、海外では今まで苦手分野だった高級車の市場にも参戦して行きます。
レクサスブランドを立ち上げたトヨタはいくつかの高級車種をレクサスブランドとして統合、販売を始めます。
バブル崩壊後は箱型セダン人気はなりを潜め、SUVやミニバンが主流になっていき、現在に至ります。
1997年、初代プリウス発売
引用:https://www.toyota.co.jp
初代プリウス トヨタ博物館 収蔵
世界初の量産ハイブリッドカーは、トヨタから発売されました。
ハイブリッドと聞くと新しい技術のように思いますが、初代が発売されて、もう20年以上経つんですね。
2014年、MIRAI発表
引用:https://www.toyota.jp
MIRAI
車にさらなる環境性能が求められる現在。
MIRAIは燃料電池で走る車です。
水素を供給するための水素ステーションは徐々に全国に広がっています。
2019年、TJクルーザー発売予定
引用:https://gazoo.com
TJクルーザー
2017年の東京モーターショーで発表された、まったく新しい車種、TJクルーザーの発売が予定されています。
この車は何を意味するのでしょう。
何に対しての、どのようなアンサーなのでしょうか。
無骨で、どことなくサイバーで、そしてとてつもなくカッコいいこの車。
シボレーのバン系やジープのシェアを狙おうとしているのでしょうか?
トヨタがこれからどこに向かおうとしているのか、この車の外観からだけでは全く予想がつきません。
世界から見たトヨタ自動車は?
引用:https://gazoo.com
ジュネーブ・モーターショーでの新型スープラ
こうしてトヨタ自動車の歴史を追ってみると、トヨタ自動車が日本の中心にいて、日本を代表してきた企業である事がわかります。
それはヒト・モノ・カネの面だけではなく、象徴としての面です。
戦間期の希望に満ちた青年、祖国のために尽力する戦時中の日本人。
戦後の焼け野原から身を粉にして働き、成長期を支えた日本のお父さん。
そして技術を進化させて世界で通用する企業に発展させた今の世代。
では、世界から見たトヨタ自動車の立ち位置はどうでしょう?
実はトヨタ自動車で生産される車のうち、私たち日本人の手に渡るのは20%だけで、残り80%は海外で販売されているらしいです。
また、トヨタ本体の社員のうち、日本人は半分にも満たないそうです。
利益27兆円のうち、日本での利益は3兆円といいますから、もはや日本の企業というより世界の企業と言えます。
それでも私たち日本人にはいまだに(日本のトヨタ)という感覚があります。
でも逆に、アメリカ人の中には「トヨタはアメリカの工場でアメリカ人向けの車をアメリカ人が作る、れっきとしたアメリカの会社だ。」と思っている人も多いようです。
これはトヨタのイメージ戦略が成功しているという事でしょうか。
全世界に対して強い競争力を持つトヨタの強さの秘密を、実際にトヨタ自動車の商品開発に携わってきた酒井 崇男氏はこう語っています。
引用:https://gazoo.com
豊田自動織機 長草工場で組み立てられた直後のRAV4
「トヨタの強さの秘密はカンバン方式に代表される生産性ではない。それはもうどこのメーカーでも取り入れている。また、技術力でもない。トヨタは新技術をオープンにして全世界に共有して、自社だけでなく業界全体の技術力を押し上げようと何年も前から尽力している。」
「トヨタの強さの秘密は、いわば天才の組織化だ。」
「多くの会社では商品開発とマーケティングは分離されているから、例えば実験室では可能だった技術でも、価格や小型化の面がネックになり、実際に商品化されるのが何年も先になったり、途方も無い価格で発売されたり、最悪、お蔵入りになったりする。」
「トヨタでは主査やチーフエンジニアには商品が売れるところまで責任を与える。消費者が欲しいものを、買える価格で製造できるよう、原価を含めたコスト計算までやらせる。
もちろん1人に押し付けるのではなく、チームで行う。トヨタではこの分野をTPD(トヨタ・プロダクト・デベロップメント)と呼んでいる。」
「産業史の中の何人かの天才的な技術者兼経営者。豊田喜一郎やスティーブンジョブズがやってきたような仕事を、会社としてシステム化してやっている。」
「だからプリウスやMIRAIを、あのタイミングで、あの価格で発売できた。」
これがトヨタ自動車の強さらしいです。
たったひとりの救世主的な天才が現れるのを待つのではなく、天才ではないとできないような仕事をシステム化することにより、会社で実現しているという事ですね。
酒井氏の口からここで改めて豊田喜一郎氏の名前が出てきた事に強い運命を感じずにはいられません。
豊田自動織機創業者の佐吉氏も、そして戦前戦後のトヨタを守り抜いた喜一郎氏も、もし仮に現在のトヨタ自動車の姿を見る事ができたなら、きっと納得するのではないでしょうか。
アイキャッチ画像:https://www.photo-ac.com/
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