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ホンダの創業車で伝説的なカリスマ経営者としてもしられる本田宗一郎氏です。
ホンダ信者・ホンダ党ともいわれるホンダファンも多く、そんな人達は本田宗一郎氏を尊敬してホンダを愛しています。
はたして本田宗一郎氏はどんな歴史だったのでしょうか?
そのエピソードを探っていきたいと思います。
ホンダの歴史 本田宗一郎氏がホンダを作るまで
18歳で学んだ「車を直すことは、人の心を直すこと」
このブログ記事の筆者である私の地元の方で、その地元の年配の方から直に話を聞いたことがある本田宗一郎氏の話です。
本田氏は1906年、静岡県磐田郡光明村(現浜松市天龍区)の生まれということで、現在の天竜区は磐田郡だったのですね。
しかも光明村があったというのは私も知りませんでした。
私が生まれる前には光明村は廃止され二俣町にかわっていました。それでも二俣町は磐田郡でした。
やがて二俣町は天竜市となり磐田郡から離脱します。
そして天竜市は浜松市が政令指定都市となるときに浜松市と合併して浜松市天竜区の一部となりました。
地元の方でないと地名の話をしても、何もわからずどうでもいいと思いますが、本田宗一郎氏は地元の英雄です。
本田宗一郎氏は手先が器用で、なんでも修理してしまう天才だったのですね。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
東京のアート商会に入社し自動車修理ができるようになった時の喜びを、本田氏は
「あの時の苦労と喜びを思い出せば、どんな苦しさも消し飛んでしまう。長い目で見れば人生にはムダがない」
と振り返っていました。
そしてそこで、生涯忘れられない経験をしたということです。
18歳になり、盛岡に1人で消防自動車を修理する出張を命じられたそうです。
現地の彼を見た人たちは
「こんな小僧に何ができるんだ」
と思っていたそうで、ひどい扱いをされたようです。
ところが、いざ修理を始めると故障しているエンジンをたちまち直してしまい、放水する装置も壊れていたのでそちらもついでに直してしまったとうことです。
その腕前に現地の人は度肝を抜かれたようですね。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
そのあとは、現地のひとに、それまでとは打って変わって最上の接待を受けたというエピソードがありました。
「車を修理する時は車だけ直してもダメだ。乗り手の心も修理してあげなくては」
その時本田宗一郎氏はこのように思ったということです。
それから本田宗一郎氏は1928年 22歳のときに暖簾分けをされて、地元浜松に支店をだしたということです。
ここでも丁寧な修理が評判だったようで、大繁盛ということでした。
ホンダの歴史 バタバタの成功を経てオートバイの製造へそして四輪自動車へ
それから独立して、東海精機を設立したということです。
1944年~45終戦の前くらいに、この静岡県西部地方では、東南海地震と三河地震があり、相当の被害だったようです。
私の家は、現在は建て替えをしましたが、建て替える前の家は、あちこちと少しかたむいていたところがありました。
祖母の話では、その地震のため傾いたということでした。
家がものすごく揺れて、「はあかある(もう壊れる)※遠州地方の方言」と祖母は当時の怖さを話してくれました。
その地震により本田宗一郎氏の工場が倒壊して、工場を手放すことになります。
そして間もなく終戦がやってきて、
戦後,本田氏は戦争中に軍が使用していた小型エンジンを自転車に付けたモーターバイク、通称「バタバタ」の製造に取り掛かったようです。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
戦後の混乱のなか、電車やバスもままならないような交通事情の状況で、バタバタは大評判で飛ぶように売れたということです。
やがて小型エンジンの在庫がなくなり、本田氏はエンジンを製造することになります。
この当時は街の自転車屋という感じで、ひとつひとつ、いい部品を選んで妥協しないで、丁寧に作成していたと聞いたことがあります。
それが、今日のHONDAの製品にあらわれているといわれます。
1948年に本田技研工業は設立されました。
本格的なオートバイの製造を目指すようになります。
本田氏の人材採用に関する考え方は独特で、
「自分と同じ性格の人間とは組まない」
「自分が手に負えないと思うほどの人間を採用する」
となっていて、
「類は友を呼ぶ」といわれます。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
人はとかく自分と似た人間、自分の言うことを聞いてくれる人と組めば楽なのですが、自分の苦手なことを補ってくれる人間や、ちょっと厄介でも自分を上回るほどの能力を持つ人間と組んだほうが、一つの目標に向かえばより大きなことを成し遂げることができる
というのが本田氏の考え方とありました。
人には波長のあう人が集まってきます。自分と合わない人は離れてしまうものです。
自分の苦手な人間でも、自分にないものをもっている人を大事にしたのだと思います。
「日本一になるなどと思うな。世界一になるんだ」
日本だけの日本一ではなく、世界一になったうえでの日本一
というのが本田氏の考え方だったのです。
1954年に本田氏が掲げた「英マン島TTレース」した。
二輪のオリンピックと言われるTTレースへの出場は当時誰もが無謀といわれていました。
出場を宣言優勝するといったのですが、そう宣言した本田宗一郎氏は関係者に鼻で笑われてようです。
しかし7年後の1961年、ホンダはTTレースで上位を独占しました。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
今まで笑っていた人の鼻をあかしたことになります。
「どこのまねでもなかった」
「世界のホンダ」
とうのを定着させました。
「誰が見ても不可能に思える、『そんな無茶な』という問題にチームを無理やり取り組ませ、いつの間にか本気にさせて、やりのけていく。
チームが本気になるというのは、みんながそれを本当に自分の問題として捉えることなんですね。
ここでこけたら自分もダメになると思うことです。
そうなると戦いの目標が決まる。
(『こうすれば人生はもっと面白くなる』p238)
リーダーシップとは、その目標をはっきりと見せてやることなんですね
それ以降も本田宗一郎氏は無理難題ともいえる目標を掲げ、四輪自動車への進出やF1に挑戦してきました。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
「これをやり遂げなければ俺の生きる道はない」
本田宗一郎氏のもと皆がそう思って一つの目標が達成できていったということです。
ホンダの歴史 本田宗一郎氏 若手の「正義」を認め60歳で退任
本田宗一郎氏は1代でホンダを世界的企業にしてきました。
その他に本田宗一郎氏が今でも尊敬され続ける理由は、その引き際といわれています。
引退のきっかけとなったのは、
1969年、アメリカで排ガス規制に関する「マスキー法」が成立したことで、世界の自動車メーカーは75年までに排ガス中の有毒物質を10分の1に減らすことを義務付けられました。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
HONDAは世界に先駆けて、このマスキー法をクリアするエンジンをつくりだしたのですが、このマスキー法ができたときの本田氏は「天の助けだ」と考えたといいます。
当時HONDAは4輪に関しては後発企業で、先行している企業がたくさんありましたが、難しい技術開発をはじめるということになれば、どの企業も同じスタートラインに立てるということで、
本田氏は技術開発には自信を持っていたので、他車に先駆けて低公害エンジンをつくることができれば、優位に立てると考えたようです。
「これができれば、世界一になれるんだぞ」
という本田宗一郎氏の言葉に対して
当時の若い開発メンバーは本田氏の言葉に対し反発したようです。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
本田宗一郎氏の本によると
引用
「それは間違っていると思います。公害をなくす努力はホンダ1社のためではなく、全人類のために必要なのです」
(『こうすれば人生はもっと面白くなる』p209)と反論。
引用ここまで
となっていますが、私は当時ホンダにいた幹部の方に直に話を聞いたことがありますので、正確な表現ではありませんが
「HONDAが世界一になるチャンスだぞ」
という本田宗一郎氏の言葉に対して
あとから、「社長にあんなこといわせないでください。」
とある幹部の人がが若手からいわれたそうです。
「われわれはHONDAが世界一になるためにやっているじゃない。人々のためにやっているんだ。」と
その言葉をあとから聞いた本田宗一郎氏は、それ以降社員の前に出てこなくなったということです。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
後日談では
本田宗一郎氏は己の志の低さを恥じ入り、若手の成長を喜んだということです。
そして若手にまかせて引退しようと決めたそうです。
本田宗一郎氏はげんこつで殴ったり怒鳴ったりすることもあったということです。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
げんこつで殴るとなると、いまでは問題になりそうですが、当時は普通だったのかもしれません。
それでも社員が本田宗一郎氏を慕ったのはそこに「正義」があったから
「正義」があれば若手の意見も取り入れる
そんな本田宗一郎氏が良かったのだと思います。
ホンダの歴史 本田宗一郎氏 引退したあとは
引退して社長を降りた後は
「ホンダのためにがんばってくれた社員にお礼を言いたい」
と日本国内はもとより、海外のホンダの工場や営業所をすべて回ったということです。
お礼行脚といわれていますが現場の人たちはどんな思いでみていたのでしょうか?
私が勤めていたホンダ事業所には、もうその当時の方はもういませんでした。
引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
しかし、以前ホンダに努めていた方がお客さんとして、よく店によってくれるので、その方から本田宗一郎氏が実際にその方が働いていた店までこられたという話を聞いたことがあります。
その方の感想などをよく聞くことはできなかったのですが、たぶん感激したことと思います。
キャッチ画像引用元:https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/04_newdevelopment/index.html
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